がっこーに行く意味。

 高学歴社会。いまの日本を表すと、こんな感じのものを構成していると思う。良い学校に行って、良い会社に勤め、妻子を抱いて、歯車となる、と言った所か。なんだか首を傾げたくなる構図ではあるが、その話はまた別の機会に。
 さて、それで思うのは、一体なにを目標としているのか? それを問いたい。
 人は何かを目標にすることで我慢し、苦難に耐えられると聞いた。半分は賛成と言った意見だが、それは確かに的を得ている。人は何かの見返りを求める動物だ。それは人によって様々だが、きっと何かを得られない限り、何も出来ないのが人だと思う。
 例えば誰かに親切をする。誰にも見られず、感謝もされない様な、影に潜められた親切だ。それは一見、何のメリットもないようにも思えるが、実の所、それは確かにある。自分が親切をやった、と言う自己満足からだ。それは実益ではないし、ただ自分が自分に対しての言葉掛けだ。けどそれは確かに人のメンタル部分に作用するし、だからこそ、人は他人の干渉なく他人に親切ができる。そう私は思っている。
 まあ、これに反論する者もいるだろう。そんな汚く、卑汚な言葉を使うな。綺麗な親切を踏みにじる気か。人は無償の行動ができる高潔で素晴らしい種族だ、と。過度の書き方をしたがそういう感じに、反感の者は思うだろう。私もそう思っていたこともあったし。
 しかし、それでも人は見返りを求めてしまうような動物なんだ。と私は言う。言ってしまう。どこにしろ、深層意識にしろ、実益や利益にも拘らず、人は、何かを求めてしまう。究極の愛と言って、見返りを求めないと言っても、それはただ“行為自体に見返りが含まれている”だけであって、全くないと言う訳じゃない。




人は、何かをする度に、何かを求めてしまう




 ……というのが本題であった。でも、それに落ち込んではいけないと思う。そして、それに囚われてもいけないと思う。人は確かに何かを求める。けど、それは確かに、生きようとする顕れなんじゃないか? そうとも捉えていたりする。生きるために、何かをする度に、何かを求めてしまう。生きているからこそ、存在しているからこそ、そうやって、貪欲に求めてしまう。それを汚いとか言うかもしれない。けれど元々、高潔に生きていける動物などいない。何かを殺して食していると言う生態を根本から改善しない限り、動物は罪を重ね続けている。
 ……話が少々脱線したので修正。……それに、自己満足にしろ、ナルシズムにしろ、私は誰かに何かをしてあげると言う行動に敬意を払っている。実益もないのに、そんなことが出来る人間は早々いない。掛け値なしに、人を手助けできるのだから。それをする際、大きなお世話と言われるかもしれないし、いちゃもんをつけられるかもしれないそれでも出来る人間が、羨ましいと思う。私には、おいそれと手出しが出来ない話だ。誰かに何かをしてあげられる、なんて……。

 ……少々変な方向に走ったが、私はそう思っている。








というか、








高学歴社会がどうしたのよ?(冒頭を見返す)