本題へと続けましょうか。

 本音を言うのは難しい。
 そう私は痛感する。元来私は嘘吐きだ。身近な人たちは私を嘘吐きと見ていないかもしれないが、それこそ私が嘘を吐いている理由に他ならない。つまり、知られない様に詐欺っているというワケ。他人も、友達も、親も。
 だから基本的には私が本音を言う人間は少ないが、まあいる(←ここら辺は本筋とは関係ない)
 さて、そして親にも良く黙っていたりする。何か言われたら反抗的な目つきで睨みつけ、モゴモゴと口の中で反論する。それは私が小心者だからと言う理由に他ならないが、でも私は頑固者でもあるのでそれを認めようともしない。
 つまり、そんな人間。嘘吐きで、小心者で、頑固者。社会では救いようの無い人間。でも、いの一番に嘘吐きで、体裁を繕おうとするからなんとかやっていけてはいる。
 でも最近、その歯車が塩梅良く噛み合わなかったりした。自分の性格を他として装ったり、慣れない口調で喋ったりとそんな無理をしすぎたからだ。まったく、やったこと無いことは実践でするものじゃない。
 そして、それがバレた。親に。(前々からバレていたかも知れないが、そこらは私の知る範疇ではない。)
 私は頑固者だったから、本心を当てられて頑なに否定した。逸らして空かして、宥めて黙った。でも、最後の最後に、本音を言い出した。
 本音を言うのは難しい。身近な者――親なら尚更。何日も何週間もかけて、やっと本音を言い出した。
 言われた言葉は、たった一言だった。



「ナイショナイショにしていて、縮こまっているんじゃない」




 それは、まさに私のことを表すに的を得た言葉だった。嘘を吐いて、纏いて、何重にもなった嘘のマントは私を締め付けていた。否定せずに、嘘を吐いて、可能性を一本にして、敢えて自分はその道に乗った。しかし、幾つも嘘を吐いている内に、嘘の自分が完璧に作り上げられていた。本当ではない、どこか間抜けで、滑稽な自分が。
 嘘を吐き過ぎた結果がこれ。それは何も言わないでナイショにした結果と違わず一緒だった。確かにそうだ。〝嘘を吐くと言うことは、本当のことをナイショにすること〟に他ならない。ああつまり、私はナイショばかり作り上げていたのかもしれない。
 私は嘘吐きで、優しくもなくて、そして無様で滑稽で見苦しい。でも何故だろう、なんでこう思うのだろう。






 それでもこんな気分を味わえるならそれでも良いと思っている。
 私は一つだけ誇りに思っていることがある。私の周りには優しい人たちが集まると言うこと。
 それだけが本当の宝で、だからこそ、私は――――――
 その後の言葉は言わない。各々考えても、忘れても良い。でも私は、この後の言葉を大切に思いたい、そう思う日だった。